トルコは、近代化よりもまずはこの地方の安定化を優先させる事を意図してキリスト教徒の被支配層にある程度の平等を宣言して税制の公正化を図るなどして、問題の解決に奔走していた。しかし、
1848年からの一連の革命を機に起こした運動が失敗したために、農奴状態の農民がさらに悲惨な状況に追い込まれることを危惧したトルコは、不安定ではあるが再び支配権が確立された後に、この地域への農業改革(自作農化)を求めた。これに対して、支配層のムスリム貴族たちが反対したためにトルコは
1850年にドナウ方面軍司令官オメル=パシャを派遣して反対派を
サラエヴォから追い出して一時的に秩序の回復に成功するが、蜂起した農民の武装解除には至らなかった。
ロシアとトルコの直接の対立の発端となったのは、トルコが支配していたエルサレムをめぐる聖地管理問題であった。フランスのナポレオン3世が個人的な名声を得るために国内のカトリック教徒におもねって聖地管理権を獲得すると、ギリシア正教を国教とするロシアのニコライ1世がこれに反発した。ロシアは正教徒の保護を口実にしてトルコ全土に政治干渉し、これがモルタビアとワラキアへの兵力投入につながっていく。
1852年に
モンテネグロの
ダニーロ2世(
モンテネグロ公)は、
ロシアと
オーストリアの賛同の元に制定した新憲法にトルコが反対したことを理由に挙兵し、同年にヘルツェゴヴィナ東部で発生した農民反乱を支援して
トルコ軍を攻撃し始めた。地の利があるモンテネグロがヘルツェゴヴィナから越境攻撃を繰り返すゲリラ戦を展開すれば、これに対して、苦戦を強いられたトルコ側は、オメル=パシャによって
スクタリから武器を買い付けてボスニア人ムスリムに流すことによって対抗した。こうして戦況は次第に泥沼化していった。