父は自動車工場の重役。俳優の
パット・オブライエンとは幼馴染で、
1917年に
アメリカ海軍に入ったときも年齢を偽って一緒だった。その後は実際に戦場に行くことはなく、除隊後は医者をめざしてウィスコンシン州の
リポン大学で学ぶも、大学の弁論部で熱弁をふるううちに演劇に興味を持ち、学生演劇に参加。さらに卒業後はオブライエンと共同生活をしながら
ニューヨークのアメリカン・アカデミー・オブ・ドラマティック・アーツで学ぶ。セールスマンや掃除人で生活費を稼ぎながら、
1923年に
ブロードウェイの舞台『R.U.R.』のロボット役で舞台デビュー、その後は舞台『A Royal Fandango』で
エセル・バリモアと共演して一躍注目を集めたのを初め、主にブロードウェイで活躍した。また、1923年には女優のルイーズ・トレッドウェルと結婚し、息子(
ディズニーでアニメ制作にかかわる)と娘を一人ずつもうけるが、親しい友人としてつきあいもしつつ晩年は別居していた。
1929年、死刑囚に扮したブロードウェイのヒット作『The Last Mile』で評判をとる。この年にはニューヨークで製作された3本の短編映画に出演、映画俳優になるため各スタジオのスクリーンテストを受けるが当時のハリウッドとしてはお世辞にも美男子とは言えなかったスペンサーはお呼びではなかった。しかし、『The Last Mile』に出演していたところを監督の
ジョン・フォードに見出され、同年に映画『河上の別荘』に主役として抜擢。同時にフォックス社と契約するが、やはりその顔立ちから悪役ばかりやらされ、順調な滑り出しとは言えなかった。しかし、
1933年の『春なき二万年』あたりから演技が認められるようになり、『力と栄光』ではたたき上げの鉄道王役も好評を得る。特に
ロレッタ・ヤングと共演した『青空天国』では彼女との仲が話題にもなった。その後の5年間で25本もの映画に出演し、
1935年に
メトロ・ゴールドウィン・メイヤーと契約、
1936年の
フリッツ・ラング監督による『激怒』や、
1937年の
アカデミー主演男優賞に初ノミネートされたパニック映画『桑港(サンフランシスコ)』などに出演。そして
1937年のポルトガル人漁師を演じた『我は海の子』と
1938年の実在する
フラナガン神父を演じた『少年の町』で2年続けてアカデミー主演男優賞を受賞。この2年連続受賞の快挙はこの57年後に『
フィラデルフィア』と『
フォレスト・ガンプ/一期一会』で
トム・ハンクスが受賞するまで唯一の事だった。これを機に一躍人気スターとなり、マネー・メイキング・スターに仲間入りも果たす。
1941年には
キャサリン・ヘプバーンとの絶妙なコンビネーションで話題を呼び『女性No.1』がヒット。キャサリンとはこの共演がきっかけで交際するようになり、二人はスペンサーの遺作となった『招かれざる客』まで9本の映画で共演するが、トレイシーは
カトリックであり、最初の妻と離婚しなかったため(ルイーズが障害のある息子を育て上げたことに、トレーシーは生涯申し訳なさを感じていた)二人は結婚しなかった。1940年代は映画会社の上層部と何度かトラブルを起こし、あまり作品に恵まれなかったが、
1950年の『花嫁の父』がヒット、アカデミー主演男優賞にもノミネートされ、また翌
1951年に続編『可愛い配当』が製作された。その後の主な作品に、
1954年の異色ウェスタン『折れた槍』、翌
1955年の
カンヌ国際映画祭最優秀演技賞を受賞した『日本人の勲章』、
1958年にはほとんど一人芝居で演じた
アーネスト・ヘミングウェイ原作の『老人と海』と全米批評家協会賞を受賞した『最後の歓呼』、
1961年のナチ戦犯を裁く裁判長を演じた大作『ニュールンベルグ裁判』などが挙げられる。
1963年の『おかしなおかしなおかしな世界』への出演以降、晩年は心臓を悪くし、ルイーズとキャサリンで交代に看病していたが、
1967年に『招かれざる客』の撮影が終了した17日後に
心臓発作で死去。スペンサーの死を看取ったのは晩年をパートナーとして過ごしたキャサリンだったが、「ルイーズに申し訳ない」との理由から葬儀へは出席しなかった。受賞を含めてノミネート回数は9回という輝かしい記録はいまだ誰にも破られてはいない。