天災というよりは人災に近く、何十年にもわたる不適当な農業技術が原因となった。過剰なスキ込みによって草が除去され、
グレートプレーンズの肥沃土は曝された。日照りが続くと土は乾燥し、土埃になり、それが東方へと吹き飛ばされ、ほとんどは巨大な黒雲となった。雲ははるばる
シカゴの空まで黒くし、土の大部分は完全に大西洋へと失われた。この災害により、
テキサス州、
アーカンソー州、
オクラホマ州、およびグレートプレーンズの周囲では大移住が起こり、50万人以上のアメリカ人がホームレスとなり、多くは職を探しにカリフォルニアなどの西部へ移住した。
原因のひとつとして、1930年代の不安定な農業経済がある。
第一次世界大戦の後に続く生産過剰のせいで、農家は利益を得るために、農業の開拓を自然の限界まで引き上げざるを得なくなった。今となっては耕作には甚だ不適当と思われる農地がますます増える一方で、農業を諦める世帯も増えた。彼らのやせ地と家は支払えない借金で抵当流れ処分になり、多くの農家は土地を捨てるしかなかった。
1933年11月11日、強大なダストストームが、乾燥した
サウスダコタ州の農地から表土を剥がし、同年で最悪のダストストームとなった。1934年5月11日、ダストボウルの嵐の中でも最悪の、二日に渡る強大なダストストームが大量のグレートプレーンズの表土を取り除いた。土埃でできた雲によって、遥か遠くの
シカゴでは土のゴミが雪のように降り、一人あたり4ポンドもの埃が空から落ちてきた。数日後、同じ嵐はさらに東の、
バッファロー、
ボストン、
ニューヨークシティ、
ワシントンD.C.に到達し、その年の冬には、
ニューイングランドで赤い雪が降ったという。
1935年4月14日は"黒い日曜日"とも呼ばれ、ダストボウルの期間を通じて最悪の "黒い吹雪" が20回も発生し、広い範囲に災害をもたらし、昼を夜のようにした。目撃者によれば、5フィート前が真っ暗で見えなかったという。