レザノフは女帝
エカチェリーナ2世の末期と新皇帝
パーヴェル1世の宮廷をうまく立ち回り、
1799年に合同アメリカ会社の経営者となり、同社は
1800年に国策会社
露米会社(露領アメリカ会社)に発展した。露米会社設立の勅許が下りたのはパーヴェル1世が暗殺される直前であった。露米会社は20年間にわたりアメリカ大陸北西部の
北緯55度以北の海岸地帯、アラスカから
カムチャツカに伸びる
アリューシャン列島、およびカムチャツカから南へ伸びる
千島列島の統治を許可された。小規模な交易会社や毛皮商人をこの地の
毛皮交易から押し出した露米会社の勅許は、総支配人レザノフおよび会社の出資者だった宮廷の成員に多大な収入をもたらしたが、まもなく管理の失敗と食糧不足でアラスカ方面の統治は混乱し、会社は大きな損失を出した。
航海中、旗艦ナジェージタ号の艦長クルーゼンシュテルンと激しく対立しつつ、レザノフは津太夫から日本語を学び辞書を作った。
1804年(
文化元年)9月に
長崎の
出島に来航する。交渉相手の定信は朝廷との
尊号一件により老中職から失脚し、
幕府は外交能力を失っており、代わりに老中
土井利厚が担当した。土井から意見を求められた
林述斎は、ロシアとの通商は「祖宗の法」に反するために拒絶すべきであるが、ラクスマンの時に心配を与えた経緯がある以上、礼節をもってレザノフを説得するしかないと説いた。だが、土井はレザノフに「腹の立つような乱暴な応接をすればロシアは怒って二度と来なくなるだろう。もしもロシアがそれを理由に武力を行使しても日本の武士はいささかも後れはとらない」と主張したという(
東京大学史料編纂所所蔵「大河内文書 林述斎書簡」)。その結果、レザノフたちは半年間出島に留め置かれることになる。翌年には長崎奉行所において
長崎奉行遠山景晋(
遠山金四郎景元の父)から、唐山(中国)・朝鮮・琉球・紅毛(オランダ)以外の国と通信・通商の関係を持たないのが「朝廷歴世の法」で議論の余地はない
[ここで言う「朝廷」とは、朝廷から任命され、国政を委任された将軍とその統治機構(江戸幕府)を指す。なお、藤田覚はいわゆる「鎖国」が江戸幕府の祖法として確立されたのは実はレザノフ来航をきっかけとしていると説く(藤田覚「鎖国祖法観の成立過程」(所収:渡辺直彦 編『近世日本の民衆文化と政治』(河出書房新社、1992年) ISBN 978-4-309-22217-2)。]として、装備も食料も不十分のまま通商の拒絶を通告される。