テーバイ近郊の生まれ。その家はギリシアの名門アイゲイダイ氏に属し、若くして作詩・音楽を学び、20歳の時に
テッサリアの豪族の依頼をうけて勝利歌を作っている。
シモニデスや
バキュリデスを同時代のライバルとして持ち、
アイギナ島の貴族や
シチリアの独裁者
テロン、さらには
アイスキュロスをはじめとして当時の文豪がつぎつぎと滞在していたヒエロンの宮廷に赴き、名声にまかせて各地の貴族のために作詩した。最大傑作といわれる「ピュティア勝利歌」第4歌と第5歌は
キュレネの王のために作られている。
オリュンピアや
デルポイなどに旅行して競技祭典にも出席したが、最後には
アルゴスの地で愛する少年テオクセノスの手に抱かれ80歳の生涯を閉じた。
ピンダロスは孤高の詩人で、豊かな詩才を誇り時勢に超然として生きた。「戦いは知らざる人には甘美なれど、知る人はその近づくをあまりにも怖れる」と歌った彼は、
ペルシア戦争のさいには愛国の歌を作ることなく中立を守り、その後の
アテナイの発展や学問に関心を持たず、「いっさいを人間のために造りたもう神」への信仰を守り、
ピュタゴラスの神秘主義に近い世界観にとどまった。
その詩は古伝によると17巻あり、賛歌・
ディテュランボス・舞踊歌などをふくんでいたが、現存するのは最初の4巻の競技勝利歌のみで、あとは断片として残っている。作品は神話の部分とピンダロス自身の世界観をあらわした部分が軸となる。複雑な
韻律とドリス方言による荘重な表現が連続するところは、アイスキュロスや
ヘラクレイトスの言語と共通している。読者は断続する詩想について行くことが容易ではなく、これはピンダロスがエピゴーネンや後継者を持たなかった理由でもある。