1213年にジョンは教皇との争いを解決した後、オットー4世らと謀って、フィリップ2世を南北から挟撃する計画を立てた。ジョンがフランス南部に進撃し、同時にドイツ、フランドル軍がフランドルからフランスに侵入するというもので、1214年に入るとジョンは
ギエンヌから侵攻し、
ポワティエ、
アンジューを回復したが、オットー4世はドイツ諸侯の動員に手間どり、進軍が遅れた。この間に、フィリップ2世は
王太子ルイを南部に派遣したため、ジョンはアキテーヌに撤退してしまった。やがて7月にはいると、オットー4世、ソールズベリー伯率いるイングランド援軍、フランドル伯、ブローニュ伯、
ロートリンゲン諸侯の連合軍、
騎士6500、
歩兵約4万がブービーヌに進撃し、フランス王軍は騎士7000、歩兵3万でこれを迎え撃った。
両軍とも両翼に騎士隊を中央に歩兵を配置し、真っ向からの激戦となった。一時はフィリップ2世も馬を失い、危うかったが、やがて、両翼のフランドル、イングランド勢が崩れ始めフランドル伯、ソールズベリー伯が捕虜となると大勢は決し、オットー4世は命からがら逃走した。取り残されたブローニュ伯も、力尽きて捕らえられた。他に100人近い騎士が捕虜となり、双方で騎士170人、歩兵数千人の死者を出した。