戦後日本初の実験用ロケットである。
1954年に年間予算560万円で開発が開始された。予算の制約から超小型の
火薬式ロケットを実験装置として使用し、
鉛筆のようであるところからこの愛称が生まれた。これについて実験を主導した
糸川英夫は、米ソの大型の実験機を縮小して実用化するという発想から、小さな物を巨大化して実用にするという「
逆転の発想」を用いたものだと後に説明している。
1955年8月からは
秋田県の
道川海岸でロケットを斜め上方に打ち上げる実験を行った。8月6日午後2時18分に行われた最初の打ち上げは、発射台の欠陥によってロケットが発射直後に砂浜に落下し失敗に終わった。発射台はただちに改良され、午後3時32分の二度目の実験で打ち上げに成功した。使用されたのはペンシル300型で、燃料に含まれていた
四塩化チタンにより煙をひきながら16.8秒間ほど飛行した後、700m離れた海面に落下した。到達高度は600mだった。ペンシルロケットの斜め打ち上げ実験は8日で終了し、計画はより大型の
ベビーロケットに受け継がれた。総飛翔数は6機であった。
日本油脂の固体推進剤製造設備の関係から、即座に供給可能な推進薬の例として
朝鮮戦争時
バスーカ用に生産された全長123mm、直径9.5mm、内径2mm、1本5,000円の
ダブルベース火薬が提示され、このサイズに合わせて機体の設計が行われた。推進薬としては前述のダブルベース火薬をベースに、
過塩素酸カリウムを減量しグラファイトを増量するなど、組成を変更し安全性を高めたものを
村田勉が新たに開発した。推進剤の点火薬としては
黒色火薬が用いられた。機体の材料には太平洋戦争中航空機用として製造され富士精密の材料倉庫に眠っていた
ジュラルミン チ-201 を使用し、熱環境が厳しい先端部には真鍮やステンレスを用いている。機体の設計は
垣見恒男、ノーズコーンや尾翼の設計は
玉木章夫が行った。