中国南部の都市を転々としながら、ヴァリニャーノの示した適応政策(アジア人を野蛮人と見てヨーロッパ式を押し付けるのでなく現地の文化を尊重するという姿勢)にしたがって中国の儒者の服を着て中国式の生活をして中国文化の研究に励んだ。やがて彼の学識、特に科学知識が有名になるにしたがって、徐々に入門者が増え、
1598年についに
北京にたどりついたが、
豊臣秀吉の
朝鮮出兵のあおりを受けて
南京へ移り、
1601年に再び北京入りして高級官吏の紹介を受けて
万暦帝の宮廷に入ることに成功した。リッチは順応政策を実践し、中国名を利瑪竇(りまとう)と名乗り、ラテン語
デウス(神)の漢語訳として「天帝」を用いた。また、
キリスト教を真に中国文化と適応させるため、中国人の祖先崇拝の習慣を受け入れた(これが後に
典礼論争として論議を生み、結果的に中国におけるキリスト教の禁止にいたることになる)。
リッチは東西文化の架け橋となった。中国で、キリスト教の教えを説いた『
天主実義』(
1595年)、世界地図である『
坤輿万国全図』(
1602年)、
ユークリッド幾何学の漢文訳である『
幾何原本』(
1607年)などを刊行し、その文化に多大な影響を与えると同時に、中国文化をヨーロッパ社会へ好意的に紹介しつづけた。当時、ヨーロッパの大学ではオラーレと呼ばれる口答試問が主流であったが、リッチらの伝えた中国の
科挙が筆記試験を普及させていく契機になったと考える向きもある。また、『坤輿万国全図』が日本に伝わっていることからもわかるように、彼のもたらした新知識の多くは漢語に訳されたおかげで日本へも影響を与えることになった。
・ジャック・ベジノ 著 田島葉子 永井敦子 白數哲也 訳『利瑪竇 〜天主の僕として生きたマテオ・リッチ〜』 サンパウロ 2004年04月 ISBN 4805680318