また道長が摂政・関白とならず内覧に留まったのは、当初、当時閣議に出られない決まりがある摂政・関白よりも、内覧を兼ねたまま
一上(閣員の首座)として実権を掌握しようとした事が理由と見られるが、天皇自身も長ずるにつれ曽祖父の
醍醐天皇・祖父の
村上天皇のような親政を志したとされる。道長も天皇と協調し、これにより、後に
大江匡房が『続本朝往生伝』で
藤原実資や
藤原行成等の有能な人材を輩出したと称えたほど、有為な政治体制が確立した。
その一方で、
鎌倉時代初期に書かれた道長の6代目の子孫にあたる
慈円の著した『
愚管抄』によれば、天皇崩御後、道長・彰子は天皇の遺品の整理中に一通の手紙を発見し、その中には「
三光明ならんと欲し、重雲を覆ひて大精暗し」と書かれていて、これを「
道長一族の専横によって国は乱れている」という意味に解した道長はその文を焼き捨てたという一件がある。これは摂関家にとっては不都合な事実であるが、慈円は事実関係そのものは否定せずに、天皇の認識不足を激しく責めて道長の忠節を称えている。また、これと似たような話は同時期に書かれた『
古事談』にも記載されていることや晩年に次期東宮に定子が生んだ
敦康親王を望みながらこれを道長に阻まれたことが『
権記』に記されていることから、この話は実話かそれに近い出来事があり、天皇と道長の関係が決して良好ではなかったと見る説もある。