良経は
和歌や
書道、
漢詩に優れた教養人であった。特に書道においては天才的で、その屈曲に激しく線に強みを加えた書風は、のちに「後京極流」と呼ばれた。また、叔父
慈円を後援・協力者として
建久初年頃から歌壇活動が顕著になり、同元年『
花月百首』、同4年頃『
六百番歌合』などを主催した。その活動は
御子左家との強い結びつきの元で行われたが、
六条家歌人との交流もあった。この良経歌壇は、のちに、『
新古今和歌集』へと結実していく
新風和歌を育成した土壌として大きな役割を果たす。その後、
後鳥羽院歌壇へ移行し、良経を含む御子左家一派は中核的な位置を占める。