成立当初、作者はこの日記に名前をつけておらず、単に『阿仏日記』などと呼ばれていたが、日記が10月16日に始まっていることを由来として後世に現在の名前が付けられた。
阿仏尼の夫・為家は
播磨国細川荘を当初は長男為氏に譲るとしていたが、後に悔い返して
遺言で為相へ譲るとしていた(公家法では悔い返しは認められない、武家法では認められる)。ところが為氏が遺言に従わず細川荘を譲らないため阿仏尼は訴訟を決心し、60歳近くという当時としては非常な高齢にもかかわらず我が子を残し鎌倉へ向かう(武家法による判決を得るため)。その間の道中、女流
歌人でもある阿仏尼は各地で風物、名所・旧跡や感慨を日記に書く一方で頻繁に
和歌に読む(これに関しては『
伊勢物語』の東下りの段の影響が指摘されている)。