大極殿の周囲は
築地回廊で囲まれ、南に朝堂院とつながる「閤門(こうもん)」があった。この区域は「大極殿院」と呼ばれる。正月には大極殿前庭に七本の宝幢(ほうどう)が立てられ諸臣の朝賀が行われた。平城宮大極殿は第一次と第二次とで大きく構造が異なり、第一次では
唐長安城大明宮含元殿の影響を受け、大極殿院が広い前庭を持ち、また大極殿は前庭から1段高い位置に建設されており、平安宮の龍尾壇(竜尾壇 りゅうびだん)の原型といえる。
平安京大極殿はそれ以前のものが築地回廊で囲まれ、閤門を持っていたのと異なり、南の朝堂と直接つながる構造となっていた(参考)。ただし大極殿は龍尾壇上に建っており、その境界には朱欄(朱色の手すり)が設けられ、朝堂と大極殿とは「龍尾道」と呼ばれる階段で往来した。龍尾壇は今の
平安神宮でも見ることが出来る。大極殿の後背には「小安殿」(こあどの)と呼ばれる殿舎が軒廊(こんろう)でつながり、天皇出御の際に休憩所として利用された。また、龍尾壇を昇った左右には「白虎楼」「蒼龍楼」という小
楼閣が対置されていた。
平安末期、
後白河法皇の命で作られた『
年中行事絵巻』には東西11
間、南北4間で、
朱塗りの柱と
瓦葺き入母屋造の
屋根に金色の
鴟尾を戴く大極殿が鮮やかに描かれており、平安神宮大極殿や平城宮跡の大極殿復元事業でも参考とされた。なお、『年中行事絵巻』や、
1895年(
明治28年)京都市参事会によって編纂された『平安通志』には、単層の大極殿が描かれているが、大極殿殿舎は火災により2度も建て替えられており、
970年(
天禄元年)成立の『
口遊(くちずさみ)』に「雲太、和二、京三」と見えるように、当初は
出雲大社や
奈良の
東大寺大仏殿に匹敵する大建築であり、『年中行事絵巻』所載のものは
1072年(
延久4年)に建て替えられた姿で、本来は重層(2階建て)であったとも推測される。