書籍-LINK.com [05/27update]

▼最新情報をCheck!!▼


「小松辰雄」||書籍-LINK.com [05/27update]

小松辰雄 wikipedia|無料辞書

前のページ 1/2 次のページ
|出身地 = 石川県羽咋郡富来町(現志賀町)
|生年月日 =
|没年月日 =
|身長 = 178
|体重 = 82
|利き腕 = 右
|打席 = 右
|守備位置 = 投手
|プロ入り年度 =
|ドラフト順位 = ドラフト2位
|初出場 = 1978年
|最終出場 = 1994年
|獲得タイトル =
|年俸 =
|経歴 =
星稜高等学校
;選手時代
中日ドラゴンズ(1978 - 1994)
;監督・コーチ時代
中日ドラゴンズ(1995 - 1997)
|選出国 =
|選出年 =
|得票率 =
|選出方法 =
-->
小松 辰雄(こまつ たつお、1959年5月10日 - )は、元プロ野球選手。現役時代は中日ドラゴンズで活躍した。ポジションは投手。現在中部日本放送の解説者。石川県羽咋郡富来町(現志賀町)出身。

◆ 来歴・人物
小学生当時より強肩ぶりを発揮し、町内の小学生が集まり記録を競う「陸上競技記録会」のソフトボール遠投にて90mを超える記録を残す。
1976年夏の甲子園で石川・星稜高等学校2年生エースとして準決勝まで進出したが、その年の優勝校である西東京代表の桜美林高校に敗退した。2年生ながら、高校生離れした快速球で高校野球ファンを魅了した。1977年の高校球界には他にも兵庫・東洋大姫路高校松本正志福島商業高校三浦広之、奈良・智弁学園山口哲治と才能あふれる投手が数多くプロ球界に入団したが、長く活躍できたのは小松だけである。1977年のドラフト会議では中日ドラゴンズから2位指名を受けたが、1位指名は入団が1978年秋まで遅れ、1979年に新人王となった藤沢公也(小松と反対に、パームボールという遅い球で打者を翻弄した)であった。
入団当初からその速球には注目が集まり、150km台を連発。最速は154kmであった。また、小松が150km台を出した時のナゴヤ球場の球速表示はいつもより長く表示されていたことがあった。丁度スピードガンが普及し始めた頃で「スピードガンの申し子」といわれた。何故これだけ速い球が投げられるのか、と当時科学的に調査が行われると、ずば抜けた背筋力という結論だった。入団当初はその速球を生かしてリリーフ、先発転向後もそのスタイルを崩すことなく成績を残した。
さっぱりとした性格でチームメートからの人望も厚く、星野引退後は長らく投手陣のリーダー的存在であり「小松の親分」などと呼ばれ親しまれた。彼がチームメート(特に新人)にする連想クイズは中日ファンの間でも有名であった
また、興和のミカロンのCMでは、牛島和彦とともに出演し、小松がミカロンを持ちながら「僕、先発(=洗髪)。ミカロンで洗髪」と言ったあと、牛島も同様に「僕、抑え。ミカロンでフケを抑えます」と言っていた。この他、ブラザー工業の電化製品のCMにも出演経験がある。
杉下茂権藤博、星野仙一が付けた中日のエースナンバー201984年から現役を引退する1994年まで付けたエース投手。その後、20宣銅烈川崎憲次郎中田賢一に受け継がれている。引退後1995年1997年まで中日投手コーチを務めた。
ちなみに入団から背番号変更する前年の1983年までは34で、こちらは200勝左腕の山本昌広(※変更年の1984年入団)に引き継がれた。

◆ 経歴
・ 高校は星稜高校に在学。
1978年 ドラフト2位で中日に入団。当時の背番号は34だった。
1979年 リリーフとして活躍。5月には月間MVP獲得。
1981年 先発転向。プロ入り初完封(対巨人)。(巨人は前年から174試合連続得点を続けていた)
1982年 近藤貞雄監督のもと、リーグ優勝の胴上げ投手に。なおこの年は、開幕投手を務めながらその試合で故障。復帰後、入れ替わりに故障して二軍落ちした牛島和彦に代わって抑えを勤め、開幕戦以来の先発登板が最終戦だった。
1984年 背番号20に変更。
1985年 投手タイトルを総なめ。
1988年 星野監督のもと、リーグ優勝に貢献。
1994年 現役引退。
1995年1997年 中日の投手コーチとして野口茂樹落合英二を育成し1999年のリーグ優勝の土台を作った。1997年限りで退任。
1998年〜 CBC解説者、中日スポーツ評論家となり現在に至る。

◆ 年度別投手成績
・ 表中の太字はリーグ最多数字