1928年11月24日、
広島県比婆郡下高野山村(現在の
庄原市高野町)で、農業の主婦(当時56歳)が、飯櫃に頭から突っ込んだ状態で死亡しているのを発見された。彼女の主治医は
脳溢血による事故死であると診断したが、警察の嘱託医は右手で首を絞めたことによる
扼殺と断定。警察は、主婦の家を家督相続していた養子の男性(当時29歳)を尊属殺人で連行した。当時の捜査機関は2日2晩の拷問を加えた上に被疑者に白紙の供述調書に署名捺印をさせ、起訴した。
1930年、
広島地方裁判所及び広島控訴院はいずれも
無期懲役の判決を言い渡した。
1931年には
大審院が上告を棄却し、被告人の無期懲役が確定した。
検察は、警察の嘱託医による扼殺との鑑定を証拠としたが、当時の医学水準からしても根拠が不明確である。後の弁護側による再鑑定では、法医学の基礎的知識に欠けた鑑定と主張されている。扼殺とされた痕跡は、着ていた着物が首に巻きついて生じた可能性があり、弁護側の法医学者による鑑定では、被害者の主治医の診断と同じく病気に伴う事故死の可能性が高いとされた。犯行時刻とされた時刻以後に被害者宅を訪問した5人の証人尋問は、いずれも裁判で却下されているが、検察側の実証が不明瞭である。白紙で作成された調書が現存していれば事件の矛盾点が追及できたはずであるが、当時の事件の関係資料は永久保存であったはずが戦災で焼失したため難しいとされる。