安政5年(
1858年)7月に斉彬が死去すると、遺言により忠教の実子忠徳(翌6年2月、
将軍徳川家茂に謁見し、その
偏諱を授かって茂久と改名。後の
忠義)が藩主に就任する。茂久の後見を務めた斉興が安政6年(
1859年)9月に没すると、藩主の実父として忠教の藩内における政治的影響力が増大。
文久元年(
1861年)
4月23日に宗家へ復帰し、諱を
久光と改名(同時に通称も和泉に改める)、「国父」として遇されることになり、藩政の実権を掌握する。文久2年(
1862年)2月、重富邸から新築の鹿児島城二の丸邸へ移る(以後久光は藩内において「副城公」とも称された)。