延暦4年(
785年)、叔父の
早良親王に代わり立太子される。だが、病弱であった上に父天皇との関係も微妙であり、『
日本後紀』によれば、延暦12年(
793年)に
春宮坊帯刀舎人が殺害された事件の背景に皇太子がいたと噂された事や、同24年(
805年)に一時重態であった天皇が一時的に回復したために皇太子に対してに参内を命じたのにも関わらず参内せず、
藤原緒嗣に催促されて漸く参内したことなどが記されている。また、皇太子時代より、妃の母である
藤原薬子を寵愛して醜聞を招き、父より薬子の追放を命じられている。こうした経緯が、即位後の天皇による父・桓武天皇の政策に対する見直しへと反映されたといわれている。
大同元年(806年)5月に即位した。即位当初は政治に意欲的に取り組み、官司の統廃合や
年中行事の停止、中・下級官人の待遇改善など政治・経済の立て直しを行い、民力休養に努めた。その一方で藤原薬子を呼び戻して
尚侍に任じて宮廷内部の事を一任し、『
続日本紀』から削除した
藤原種継暗殺事件の記述を復活させた。これは薬子が
藤原種継の娘であったこともあるが、早良親王廃太子と自分の
皇位継承の正当性を示す目的があったとされている(後に嵯峨天皇によって再度削除されることになる)。大同4年(809年)4月、病気のため神野親王(嵯峨天皇)に譲位、嵯峨天皇は平城天皇の子の高岳親王を皇太子に立てた。同年12月、平城上皇は旧都である
平城京に移り住んだ。
薬子やその兄の
藤原仲成の介入により、大同5年(
810年)、
平安京より遷都すべからずとの桓武天皇の勅を破って平安京にいる貴族たちに
平城京への
遷都の詔を出し、政権の掌握を図った。しかし、嵯峨天皇側に機先を制され、9月10日、嵯峨天皇が薬子の官位を剥奪。これに応じて11日に挙兵し、薬子と共に
東国に入ろうとしたが、
坂上田村麻呂らに遮られて翌日平城京に戻った。直ちに剃髮して仏門に入り、薬子は服毒自殺した。高岳親王は皇太子を廃され、大伴親王(後の
淳和天皇)が立てられた。これを
薬子の変と呼ぶ。なお「薬子の変」の際、妃の
朝原内親王と大宅内親王は平城上皇に同行せず、
弘仁3年(812年)の5月、揃って妃の位を辞した。