しかし、将門の行為が父国香を死に至らしめたことでもあり、叔父の
良兼に説得され、良兼や
良正らが将門を攻める際これに加わり将門と対立することとなる。だが抗争は将門有利に進展し、承平8年(
938年)密かに上洛を企てる。これを察知した将門に
2月29日信濃国小県郡の
信濃国分寺付近で追撃を受けるも脱出に成功し京の都に辿り着く。そして将門追捕の
官符を持って帰国するが一蹴され、
天慶2年(
939年)6月上旬には叔父良兼が病没し後ろ盾を失い、同年10月、
陸奥守平維扶の赴任に従って陸奥に入らんとするも再び将門の追撃を受け、辛くも逃げきり身を隠す。11月
常陸国の紛争を利用して将門を討たんとするも失敗、
藤原為憲と共に再び身を隠した。
『
将門記』では将門と親睦をはかろうとする態度を見せたり、たびたび将門に敗れて追われる描写が多い。『
今昔物語集』巻第二十九・本朝付悪行では、第五話「平貞盛朝臣、法師ノ家ニ於テ盗人ヲ射取リシ語」の、陸奥から帰京の途中に知人の法師の家に宿った際、盗人相手に振るった武勇の逸話と、第二十五話「丹波守平貞盛、児ノ肝ヲ取リシ語」の、妊婦の腹を裂き胎児の肝を得て自分の矢傷の治療をし、その秘密を守るため治療法を伝授した医師の殺害を企てた、という逸話が描かれている。