ところが
四条天皇が12歳で急死したため、皇位継承の問題が持ち上がった。
公卿や
幕府などの思惑が絡んだため、問題は難航した。
九条道家ら公卿勢力は、
順徳上皇の皇子である
忠成王(
仲恭天皇の異母弟)を擁立しようとしたが、
執権北条泰時は、
承久の乱の関係者の順徳上皇の皇子の擁立には反対の立場を示し、中立的立場であった土御門上皇の皇子の邦仁王を擁立しようとし、
鶴岡八幡宮の御託宣があったとして邦仁王を擁立した(実は土御門定通の妻は泰時の異母妹であったため、邦仁王と
北条氏とは縁戚関係にあったという特殊な事情もあった)。この駆け引きのため、11日間の空位期間が発生した。また、当時の貴族の日記である『
平戸記』・『
民経記』が邦仁王擁立を非難する記述(ともに仁治3年正月19日条)を残すなど、当時の貴族社会に衝撃を与えた。