幼いときに
青蓮院に入寺し、
1167年(
仁安2年)
天台座主明雲について受戒。
1192年(
建久2年)、38歳で天台座主になる。その後慈円の天台座主就任は4度に及んだ。天台座主として法会や伽藍の整備のほか、政治的には兼実の孫
道家の後見人を務めるとともに、道家の子
藤原頼経が
将軍として
鎌倉に下向することに期待を寄せるなど、公武の協調を理想とした。
後鳥羽上皇の挙兵の動きには
西園寺公経とともに反対し、『愚管抄』もそれを諌めるために書かれたとされる。だが、
承久の乱によって後鳥羽上皇とともに兼実の曾孫である
仲恭天皇(道家の甥)が廃位されたことに衝撃を受け、
鎌倉幕府を非難して仲恭復位を願う願文を納めている(貞応3年正月慈円願文(『鎌倉遺文』3202号))。また、『
門葉記』に採録された
覚源(
藤原定家の子)の日記(仁治3年正月24日条)には、没後に慈円が
四条天皇を祟り殺したとする噂を記載している。