その後、
用明天皇が2年ほど皇位に在ったが、用明2年4月乙巳朔癸丑(旧暦
4月9日『古事記』では
4月15日)(
587年)に病没後、穴穂部皇子を推す
物部守屋と泊瀬部皇子を支持する
蘇我馬子が戦い、蘇我氏の勝利に終わった。そこで皇太后(額田部皇女)が詔を下して泊瀬部皇子(
崇峻天皇)に即位を命じたという。しかし、5年後の祟峻5年11月癸卯朔乙巳(旧暦
11月3日)(
592年)には
崇峻天皇が馬子の指図によって暗殺されてしまい、翌月である12月壬申朔己卯(旧暦
12月8日)に、先々代の皇后であった額田部皇女が、馬子に請われて、豊浦宮において即位した。時に彼女は39歳で、史上初の女帝となった(ただし、
神功皇后と
飯豊皇女を歴代から除外した場合)。