千代田区内にある
暁星小学校に入学後、父の
中国管区警察局公安部長転任に伴い広島市に転居。私立の暁星から終戦数年の広島市立の普通の小学校に入ったため、強烈な
広島弁、
被爆で背中一面
ケロイドの担任の先生、
夜店で
拳銃を売買する光景を目撃し大きなショックを受ける
[自著『私は如何にして幸福の科学の正会員となったか』、p10-12][自著『だから何なんだ』、p275-278][自著『どんな人生にも雨の日はある』、p55-56、ブロンズ新社、1989年]。広島の後、
山梨県に転校。さらに両親は
秋田県に転勤となったが
武蔵中学を受験・入学したため秋田には行かず、その後は東京・
半蔵門のおばの家に寄宿。
武蔵高校を経て、
慶應義塾大学文学部、
武蔵野美術短期大学デザイン科中退。武蔵高校の同級生に
高平哲郎がいる。大学時代にカレッジフォークグループ「モダン・フォーク・フェローズ」にベースとして参加。モダン・フォーク・フェローズの一員として、
東芝から『さよならは云わないで』『朝焼けの中に』の2枚の
EPを出す。
バラエティに対する確固とした哲学を持っており、当時テレビ界で活躍していた数々の人間が彼の批判の矛先となった(高平哲郎、
萩本欽一など)。また数々の番組を降板し潰してきた事でも有名。
ビートたけしから「この人ほど番組潰してきた作家はいない」と評されている。この辺の顛末は当時『
宝島』誌に連載していた自身のエッセイ『極楽TV』に詳しい。