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「東條内閣」||書籍-LINK.com [05/27update]

東條内閣 wikipedia|無料辞書

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|10月18日||7月22日|大政翼賛会など。|第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)|(1942年(昭和17年)4月30日任期満了前の第20回衆議院議員総選挙が行われたのは1937年(昭和12年)4月30日であったため、本来の任期は1941年(昭和16年)4月30日までであった。しかし、1年間任期延長したため、1942年(昭和17年)4月30日に任期満了を迎え、同日、第21回衆議院議員総選挙の投票が行われた。)|http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/40.html|陸軍大臣|画像=
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|画像説明=東條内閣の閣僚(前列中央が東條英機首相)。
1941年(昭和16年)10月18日総理大臣官邸にて。 -->

◆概要
前の内閣総理大臣である近衛文麿は、高邁な理想を持って組閣を行っては、軍部の横槍などで嫌気が差し、すぐに内閣を投げ出す気質であったが、前の第3次近衛内閣に至っては、組閣からわずか3ヶ月で瓦解した。近衛も東條も、時局収拾のためという名目で皇族内閣の成立を望み、陸軍大将東久邇宮稔彦王を次期首相候補として挙げた。稔彦王は現役の軍人であり、軍部への言い訳も立つという考えもあってのことである。しかし、木戸幸一内大臣が「皇族の指導によって政治・軍事指導が行われたとして、万が一にも失政があった場合、国民の恨みが皇族に向くのは好ましくない」として反対したため、あらためて重臣会議に諮られた。結局、「強硬論を主張する東條こそ、逆説的に軍部を抑えられる」という木戸の意見が通り、東條が組閣することになった。なお、この際、東條は陸軍大将に昇進している。
東條内閣は、東條が内閣総理大臣・陸軍大臣・内務大臣を兼ねるという一人に絶大な権力が集まる形で始り、「東條幕府」と揶揄された内相の地位は、第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)を行うにあたり、生え抜きの内務官僚である湯沢三千男に譲る。。しかし、戦局は不利の一途を辿り、軍部への指導力を高めるために行った東條の参謀総長兼任もさしたる実効力はなく、かえって東條批判を増すばかりであった。さらに、戦時体制強化のため、盛んに省庁の再編や人材登用を行った。しかし、一連の再編の中で、大東亜省設置に反対して東郷茂徳外務大臣が辞任し、東京都制市町村長の官選導入を柱とした市制町村制改正に関わる帝国議会の審議の過程で、翼賛政治会の反感を買った湯沢三千男内務大臣が更迭に追い込まれるなど、その政権基盤は日本軍が苦境に立つとともに次第に弱体化していった。
最終的には、元首相などの重臣たち高松宮宣仁親王海軍大佐らを中心とした皇族グループ(重臣の近衛は皇族ではないが摂家の筆頭であり、立場的には皇族に準じる)による倒閣工作が水面下で進行し、マリアナ沖海戦と、それに伴うサイパン陥落の責任を取る形で、1944年(昭和19年)7月18日に総辞職した。

◆閣僚
東條英機内閣の閣僚。