前の内閣総理大臣である近衛文麿は、高邁な理想を持って組閣を行っては、軍部の横槍などで嫌気が差し、すぐに内閣を投げ出す気質であったが、前の
第3次近衛内閣に至っては、組閣からわずか3ヶ月で瓦解した。近衛も東條も、時局収拾のためという名目で皇族内閣の成立を望み、
陸軍大将の
東久邇宮稔彦王を次期首相候補として挙げた。稔彦王は現役の軍人であり、軍部への言い訳も立つという考えもあってのことである。しかし、
木戸幸一内大臣が「皇族の指導によって政治・軍事指導が行われたとして、万が一にも失政があった場合、国民の恨みが皇族に向くのは好ましくない」として反対したため、あらためて
重臣会議に諮られた。結局、「強硬論を主張する東條こそ、逆説的に軍部を抑えられる」という木戸の意見が通り、東條が組閣することになった。なお、この際、東條は陸軍大将に昇進している。
東條内閣は、東條が内閣総理大臣・陸軍大臣・内務大臣を兼ねるという一人に絶大な権力が集まる形で始り、「
東條幕府」と揶揄された
[内相の地位は、第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)を行うにあたり、生え抜きの内務官僚である湯沢三千男に譲る。]。しかし、戦局は不利の一途を辿り、軍部への指導力を高めるために行った東條の
参謀総長兼任もさしたる実効力はなく、かえって東條批判を増すばかりであった。さらに、戦時体制強化のため、盛んに省庁の再編や人材登用を行った。しかし、一連の再編の中で、
大東亜省設置に反対して
東郷茂徳外務大臣が辞任し、
東京都制と
市町村長の官選導入を柱とした
市制・
町村制改正に関わる
帝国議会の審議の過程で、
翼賛政治会の反感を買った湯沢三千男内務大臣が更迭に追い込まれるなど、その政権基盤は日本軍が苦境に立つとともに次第に弱体化していった。