福岡県久留米市で、
石ノ森章太郎と同じ年月日に生まれる。6歳までは
兵庫県明石市で過ごし、
第二次世界大戦中は母親の実家がある
愛媛県喜多郡新谷村(現在の
大洲市新谷町)に疎開していた。このときアメリカ軍機動部隊の戦闘機や
松山市へ空襲に向かう
B29などの軍用機を多数目撃していた。この体験が後の作品に影響を与えたという。父親は陸軍航空隊の少佐でパイロット。
四式戦闘機(疾風)に乗って、終戦の日まで連合軍と戦っていたという。また特攻隊の
少年兵の教官を務めた。戦後、多くの元軍人パイロットが自衛隊入りしたのに対し、松本の父は「敵の戦闘機には乗れない。」と言い、野菜の行商をしながら線路脇のバラックに住みその境遇を自ら進んで赤貧へと落とした。しかし、家族で父に反対する者はおらず松本少年も「俺の父親は最高だ、父親と一緒にいられれば俺は満足。」と行商のリヤカーを押したという。この「本当のサムライとしての父のイメージ」は、後にハーロックや沖田十三のモデルとして、松本の作品に生かされていった。また松本自身、進駐軍兵士がばら撒くキャンディーなどを「食べたくて仕方なかったが全部下駄で踏みつけてつぶした。」という。
終戦後は福岡県
小倉市(現・
北九州市)に移る。小学生のときからの漫画少年で、
高井研一郎らと同人グループ「九州漫画研究会」を結成し、同人誌「九州漫画展」を主宰。
1954年、
福岡県立小倉南高等学校1年生のときの投稿作「蜜蜂の冒険」が『
漫画少年』に掲載されデビュー。そのときから中央でも既に知られる存在で、
手塚治虫が旅行先の九州で原稿を描くとき手伝いを頼んだというエピソードもある。高校卒業後の
1957年、
毎日新聞西部本社版で連載をするはずだったが急に担当者が代わりその話は反故にされたものの、月刊少女雑誌『少女』の連載が決定して上京。『少女』と『
少女クラブ』に不定期で描く少女漫画家で出発し、
1960年前後から少年誌、青年誌にも進出。なおデビュー時は「松本あきら」名義を使用しており、「松本零士」を使うようになったのは1965年以降である(後述)。