吉州廬陵(現在の
江西省吉安県)の比較的貧しい家庭に生まれ、四歳で父を失う。正規の教育によらず自学自習で、
1030年(
天聖8年)
進士に及第、
包拯を継いで、開封府尹の任に就く。高官への途が開けたが、この環境で培われた独立不羈の思想は、彼の特質のひとつであり続けた。以後、
館閣校勘等を歴任するが、
1036年(
景祐3年)、改革派の
范仲淹を越権してまでも弁護したため、夷陵県令に左遷された。
韻文では詩(
漢詩)と
詞をともに書き、気取らず、ユーモラスな作風である。詩は、
晩唐の絢爛たる文体を避け、
盛唐期の威風を残した無駄のない質実剛健なものである。しかし彼は、どちらかと言えば詞で有名である。特に「
采桑子」のために創られた「
西湖好」と名付けられた一連の詞は、その様式の標準となり詞を大衆化することに大きく貢献した。