江見忠功は
岡山の一番町一番屋敷に生れた。父の鋭馬は水蔭が幼少の頃死去。明治14年 (1881)、叔父の水原久雄の勧めで軍人を志して上京したが、次第に文学に惹かれるようになり、15歳のときに軍人を諦める。明治18年、従兄の富田嘉則のもとに預けられ、
杉浦重剛の
称好塾に入り同人雑誌・毎週雑誌を発刊した。またこの頃、
巌谷小波が塾に入り知り合うようになり、明治21年 (1888)
6月14日、小波とともに
尾崎紅葉を訪ねた。叔父も忠功が作家として活動することを認める。この頃また
川上眉山、
石橋思案、
石橋忍月、
広津柳浪らを知った。
その後小波の勧めで
硯友社に属す。
我楽多文庫誌第三号に狂歌一首が載せられ、新人社員・
水蔭亭 雨外(すいいんてい うがい)として紹介される。翌年には雑誌・
文庫に『旅画師』を発表し、本格的な文筆活動を始めた。明治25年 (1892)、
江水社を起こし
田山花袋ら門人を迎える。浪漫的に始まった作風もこの頃から広がりを見せ、脚本も書くようになり、特に芸術家の苦悩を描いた作品を数多く世に出した。さらに通俗的な作品も書くようになり、探偵小説『女房殺し』(明治28年10月、文芸倶楽部)は好評を博した。そのほか『新潮来曲』『旅役者』『泥水清水』といった作品を発表し最盛期を迎える。