1935年、 西町小学校を卒業した。担任の
教師は進学を勧めたが、家庭の事情により奉公に出た。親戚の伝手によって最初
株式現物取引所田崎商店に出るが、半年あまりでペンキ屋に奉公を変わり、さらにそこも退いて株式仲買店松島商店に入った。以後、
1942年に国民勤労訓練所に入所するまで、同店で過ごした。
チップや小遣い銭を元手に内緒の
相場に手を出し
月給を上回る収入を得ていた。兜町時代の正太郎はこれを「軍資金」として
読書、
映画、観劇にはげみ、
登山や
旅行を楽しみ、
剣術道場にも足を運ぶ一方、諸方を食べ歩き、
吉原で遊蕩にふけるなどした。特にこの時期、読書・映画への興味が深まったことはもとより、
歌舞伎・
新国劇・
新劇などの舞台を盛んに見物し、歌舞伎への理解を深めるために
長唄を習うまでした。
1941年、
太平洋戦争が開戦したが、その翌年には兜町を退職し、国民勤労訓練所に入所。同年のうちに
芝浦・萱場製作所に配属され、ここで
旋盤機械工としての技術を学んだ。所長の意向ではじめ
経理を担当する予定であったものが、本人のたっての望みで現場担当となり、上司の丁寧な指導もあって数箇月のうちにこの技術に習熟した。このころには「
婦人画報」の朗読文学欄に
スケッチを投稿するなどした。そのうち「休日」で選外佳作(
1943年5月号)、「兄の帰還」で入選(同7月号)、「駆足」で佳作入選(同11月号)、「雪」で選外佳作(同12月号)。「兄の帰還」で
賞金50円を稼ぎ、これが正太郎にとってはじめての
原稿収入となった。