初期には半太夫節に式部節などを加味した語り口を持味にし、
庶民からひろく支持された浄瑠璃であったが、後には
豊後節や
常磐津節によって人気を奪われ、このため豊後節禁止を
幕府に働きかけるなどの策を弄したことでも知られる。江戸中期以降は人気、
歌舞伎の
伴奏音楽の地位をともに奪われ、主にお座敷での
素浄瑠璃として富裕層に愛好された。特に
吉原との関係は深く、二代目(?〜1734)、三代目(?〜1745)の河東は吉原に暮らし、初代、二代、三代の蘭洲は妓楼の主であったといわれる。
享保十八年 (1733) に
市村座で『助六』の前身である『英分身曾我』
(はなぶさ ぶんしん そが)』が上演された際、その「出端の唄」の曲名が「所縁江戸櫻」
(ゆかりの えどざくら)だった。この唄はこれ以後、市村座の座元である代々の
市村羽左衛門がこの市村座で助六を演じるときのみにしか使われないようになる。これが
宝暦年間 (1751〜63) になるともっぱら代々の
市川團十郎がこれを使うようになり、
七代目市川團十郎の
化政期にはとうとうこの河東節の「所縁江戸櫻」が
成田屋市川宗家の専売特許のような扱いを受けるまでになってしまった。このため他家が『助六』を上演するときは成田屋に遠慮して、この「出端の唄」を半平太節・常磐津節・清元節そして長唄などに書き替えたもので行うようになる。そして「出端の唄」の曲名に準じて、演目の
外題も変わるという、独特の慣習が成立したのである。