だが、その即位は天皇個人が望んだ皇位継承ではなかったとされている。『日本後紀』によれば、
大同元年
5月1日(
806年5月22日)に大伴親王(当時)が父帝の死を機会に
臣籍降下を願い出て皇太子(平城天皇)に慰留されている)。天皇は桓武天皇の皇后(
藤原乙牟漏)所生ではなかったが、生母が皇后と同じ
藤原式家の出身でかつ異母姉妹にあたる皇后所生の
高志内親王を后として
恒世親王を儲けていた。平城・嵯峨両天皇を除けば恒世親王が桓武天皇嫡系にもっとも近い皇族(臣下を母とする平城天皇の
高岳親王や嵯峨天皇の
正良親王よりも近い)であったが、父親である大伴親王を飛ばして皇嗣に立てる訳には行かなかった。そのため、嫡子ではない大伴親王への皇位継承の可能性が浮上した。親王は平城・嵯峨両天皇が自己の異母姉妹(桓武天皇の内親王)との間に男子を儲けた場合に自分や恒世親王が
他戸親王や
早良親王のように皇位継承争いに巻き込まれることを危惧して上表を出したと考えられているが、桓武天皇嫡系に准じた恒世親王の皇位継承権の喪失につながるこの上表は受け入れられるところとならなかった。