9世紀〜
10世紀ごろに
律令制の解体が進展していくと、百姓の中に他から田地を借りて耕作し、富を蓄積する
富豪層が出現した。これが田堵である。初期における「田刀」は後世の田堵とやや性格を異にし、荘園の職掌の1つとしての性格が強く、荘園の土地を預作をすると同時に自らの私宅(穀物の貯蔵庫にもなり得る)と治田(開墾地)を有していた。田刀は
院宮王臣家や寺社に私宅と治田を寄進して田刀の身分を手に入れて国衙からの租税を逃れようとした。
延喜の荘園整理令制定の目的の1つにはこうした田刀の行動を規制することも含まれていた。10世紀後半の
王朝国家確立とともに国衙による賦課主体としての田刀の把握が進み、この時期から代わりに「田堵」の字が用いられるようになる。「田堵」の初見は
永延2年(
988年)の「
尾張国郡司百姓等解」である
[木村茂光「田堵の経営」(初出:歴史科学協議会 編『歴史が動く時 人間とその時代』(青木書店、2001年) ISBN 978-4-250-20137-0/改題所収:「田堵の性格と経営」木村『日本初期中世社会の研究』(校倉書房、2006年) ISBN 978-4-7517-3740-8 ?-第二章]。
田堵には、古来の
郡司一族に出自する在地豪族や、土着
国司などの退官した律令官人を出自とする者が多く、蓄積した富をもって、
墾田開発・田地経営などの営田活動を進めたり、他の百姓への
私出挙を行ったりして、より一層、富を集積し、一般の零細な百姓層を隷属化して成長していった。