同年
10月5日[『栄花物語』は定子の立后を6月1日とし、それが彼女の祖父兼家の病中であったにもかかわらず、外戚の高階氏が道隆を唆して立后を強行させたため、世の非難を浴びたという。だが、実際には定子立后は10月5日で兼家の死後数カ月経っており、『栄花』の説は妥当でない。]、皇后に冊立され「
中宮」を号した。なお、定子は一条天皇の皇后として「中宮」を号したのであり、立后の
詔にも「皇后」と明記された。
正暦元年当時、
律令が定める「
三后」のうち、
太皇太后は3代前の帝の正妻・
昌子内親王、
皇太后は当帝の生母・
藤原詮子、中宮は先々代の帝の正妻・
藤原遵子で全て占められていた。道隆はその中に割り込んで定子を立后させるために、本来皇后の別名である「中宮」の称号を皇后から分離させて定子に与え、また遵子に付属した「中宮職」を改めて「皇后宮職」とし、「中宮職」を定子のために新設した。その結果、「往古不聞事」である皇后四人の例を作り出して世人の反感を招いたという(『
小右記』)。また、道隆は弟の
藤原道長を
中宮大夫に命じて定子を補佐させようとしたが、道長は父の喪中を理由に立后の儀式を欠席している。のちに道長が「皇后」と「中宮」の区別を利用して「一帝二后」を謀り、定子を窮地に追いやることになるのだが、その元を作ったのが定子の父道隆であることになる。同じ年の5月には、父・道隆が祖父兼家の亡き後を継いで摂政・
氏長者に就任しており、道隆一族は輝かしい栄華を謳歌した。
しかし、
長徳元年(
995年)4月10日、関白であった定子の父道隆が死去すると、政権は
国母・
東三条院詮子の介入により定子の叔父
道兼、ついで
道兼が急死するとその弟
道長の手に渡り、有力な後盾を失った定子の立場は危ういものとなった。さらに、翌年4月には定子の兄・内大臣伊周、弟・中納言隆家らが
花山院奉射事件を起こして左遷され(
長徳の変)、当時懐妊中の定子も内裏を退出し里第二条宮に還御するが、目の前で邸に逃げ込んだ兄弟が
検非違使に捕らえられることを見て、あまりの衝撃に自ら鋏を取り落飾した。