『
日本書紀』では蘇我蝦夷、通称は豊浦大臣(とゆらのおおおみ)。『上宮聖徳法王帝説』では「蘇我豊浦毛人」。蝦夷は
蝦夷と同じ漢字であるため、これは
蔑称であり、
毛人が本名との説があるが、「蝦夷」も「毛人」も同じ対象を指すことを考慮していない。「えみし」という名称は
小野毛人や
佐伯今毛人も使用しており、わざと悪いものを自分の名前につけることで逆に厄払いにしたという説や、当時蝦夷は頑強に大和朝廷に抵抗しており、「強い人間」という印象があるため名前につけたとする説もある。また蘇我入鹿と同様に死後中大兄皇子らによってこれまでの名前を資料とともに消され、新たに卑しい名前として勝手に名付けられたという説もある。
推古天皇末年から
皇極天皇の御代にかけて権勢をふるった。推古天皇の崩御後、皇位継承者の選定に当たり、推古天皇の遺勅として、田村皇子を
舒明天皇として即位させることに成功した。有力な皇位継承の候補者としては田村皇子と
山背大兄王(大兄は皇太子の意味となれるが山背大兄王が皇太子となったという記述は日本書紀にはなく、単なる皇子とする者もいる)がいたが、山背大兄王を推薦した叔父の
境部摩理勢を殺害した。
舒明天皇の崩御後は、
皇極天皇を擁立したが、山背大兄王の私民を使役して自らの墓所を作らせた。また入鹿に紫冠(
冠位十二階最高位大徳の色であるが、代々大臣を務めた蘇我氏当主の冠とする説もある)を授け大臣と擬し、弟を物部大臣と呼び、屋敷を宮上の門(みかど)とよばせるなど自らを大王に擬する行為があった。蝦夷の子の
蘇我入鹿は山背大兄王を襲い、上宮王家一家を自殺に追いこんだ。
日本書紀には、蝦夷が入鹿のこの行為を怒り嘆いたと伝えている。皇極天皇4年(
645年)に天皇の御前で入鹿が殺されると、一時は蝦夷のもとに与する者が集まったが、翌日、入鹿の屍を前に蝦夷は邸宅に火をかけ「
天皇記」・「
国記」もろとも自殺した。