大宰府の
主神であった
習宜阿曾麻呂は、偽って
豊前国(
大分県)の
宇佐神宮より天皇の位を道鏡に譲れとの神託があったと道鏡に伝え、道鏡はこれを信じて皇位に就く志を抱くが、
和気清麻呂が勅使として参向しこの神託が虚偽であることを上申したため、道鏡が皇位に就くことはなかった。
神護景雲4年(
770年)に称徳天皇が病死するが、葬礼の後も僥倖を頼み称徳天皇の御陵を守っていたが、神護景雲4年8月21日、造
下野薬師寺別当(
下野国)を命ぜられて下向し、赴任地の下野国で没し庶人の待遇で葬られた。道鏡死去の報は、宝亀3年4月7日(772年5月13日)に下野国から
光仁天皇に言上された。道鏡は長年の功労により刑罰を科されることは無かったが、親族(弓削浄人とその息子広方、広田、広津)4名が捕えられて
土佐国に流されている。(以上、
続日本紀)
こうした説が流布された背景には、称徳天皇の死をもって
天武天皇系の皇統が断絶して
天智天皇系の皇統が復活した事から、天智天皇系の皇位継承を正当化するために天皇と道鏡を不当に貶めるためという指摘がある。また、道鏡が皇位を狙っていたと言う具体的な証拠も乏しく、左遷の時の理由に挙がってはいるものの、宇佐八幡神託事件などがあるにも関わらず、具体的な証拠として採用されていない。その左遷もあくまで「政治家から一般の僧侶に戻った」というに過ぎず、仮に女性と通じていたというなら、相手が天皇でなくても戒律を破ったとして僧職を剥奪されるはずである。このため、宇佐神宮の神託の内容が実際に皇位継承に関するものだったのか疑問視する意見や、皇位を継承させたがったのは称徳天皇の方ではないかという意見もある。