安嘉門院に仕えるが出仕中、10代で初恋の失恋のショックから出家を決意し尼となったが、その後も世俗との関わりを持ち続けた。30歳頃
藤原為家の側室となり、
冷泉為相らを産む。為家の没後、
播磨国細川荘(現
兵庫県三木市)の相続をめぐり、正妻の子
二条為氏と争い、
1279年(弘安2年)
幕府に訴えるため
鎌倉へ下った。このときの紀行と鎌倉滞在のことを記したのが「
十六夜日記」である。訴訟の結果がわかる前に鎌倉で没したという説と、京都へ帰った後に没したとの説がある。「弘安百首」などに参加し、関東にある10社に勝訴を祈願して奉納した「安嘉門院四条五百首」や「安嘉門院四条百首」などもある。