文政9年6月20日(
1826年7月24日)に父・正精が死去して兄の阿部正寧が第6代藩主を継ぐと、正弘は
本郷(
文京区)の中屋敷へ移った。しかし、正寧が病弱だったため、10年後の
天保7年(
1836年)12月25日、正弘を養子にして家督を譲って
隠居したため、正弘は第7代藩主に就任することになった。
天保14年(
1843年)
閏9月11日、25歳で老中となり、辰の口(
千代田区大手町)の屋敷へ移った。天保15年(
1844年)5月に
江戸城本丸焼失事件が起こり、さらに外国問題の紛糾などから水野忠邦が老中首座に復帰する。しかし阿部は1度罷免した水野が復帰するのに反対し、家慶に対して将軍の権威と沽券を傷つけるものだと諫言したという。水野が復帰すると、水野の天保改革時代に不正などを行っていた江戸南町奉行・
鳥居耀蔵や
後藤三右衛門らを処分し、さらに
弘化2年(
1845年)9月には老中首座であった
水野忠邦をも
天保の改革の際の不正を理由に罷免させ、後任の老中首座となる。第12代将軍・徳川家慶、第13代将軍・
徳川家定の時代に幕政を統括する。
嘉永5年(
1852年)には
江戸城西の丸造営を指揮した功により1万石が加増される。老中在任中には度重なる外国船の来航や中国での
アヘン戦争勃発など対外的脅威が深刻化したため、その対応に追われた。